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おまー
父は酒乱でDV・母は過干渉タイプの毒親。父は亡くなり、母とは絶縁。カウンセリングを受け、生きづらさを克服。

プロフィール

当ブログにお越しいただきありがとうございます。毒親育ちのおまーと申します。

名前おまー
年齢30代後半
家族構成夫、娘2人
趣味美味しい物を食べること・お昼寝

毒親のもとに生まれた私はずっと生きづらさを感じ、理由がわからないまま大人になりました。その理由は、大人になってから親が原因だったとわかります。

毒親に育てられた私は、モラハラ夫と結婚し、そんなモラハラ夫を育てた義父母も毒親でした。

このブログは私の毒親エピソードや昔の自分が知りたかったこと、聞きたかったことを書いています。同じように毒親で悩んでいる方の力になれたらいいなと思います。

目次

家族構成

頭のいかれた家族をご紹介します。

実母

過干渉タイプの毒親。短気で人を見下すことが大好き。先のことを考える能力がない。母の両親も毒親。

実父

モラハラ・酒乱。酒が入ると豹変する。
子どもに興味はない。小学校高学年くらいから、酒が入ると殴られるようになる。私が高2のときに癌で他界。

両親に殴られるのは私だけだったので親のことは私ほどは憎んでいない。
でも中3のときに母が不倫相手と出て行ったので、母に捨てられたと思っている。(その時の私は「自由だ!ラッキー!」としか思ってない)
昔は大嫌いだったけど、今は普通に仲良し。

祖父(母方)

私にとっては優しい大好きなじーちゃん。
でも小さい私を連れて不倫相手に会いに行ったり、公衆電話に通ったり、なかなか破天荒。(大人になってから相手が不倫相手だったと知る)
事業に失敗し借金を作るし、女も作るし、やばい奴(笑)

祖母(母方)

酒に逃げた結果、アルコール依存症になる。
いつも酔っ払ってるから苦手だった。
母とはいつも喧嘩。今思えば2人ともそっくり。

祖父(父方)

昭和の男って感じ。ばーちゃんを唯一操れる人。
優しくて大好きだった。一緒に遊んでくれた大人は2人のじーちゃんだけ。

祖母(父方)

世間体ばかり気にする人。都合の悪い事は聞こえなくなる調子のいい耳の持ち主。
人との繋がりはお金がないとだめだと思っている。

結婚前から変だなと思っていたけど、結婚8年目くらいでモラハラだと気付く。
4人中3人がモラハラ・1人がDVのヤバい兄弟の末っ子。

義父

私の父と同じで酒乱。酒が入ってなくても短気だけど、酒が入ると手が出る。

義母

私の母と同じ過干渉タイプの毒親。
夫は末っ子なので被害は少なめ。

おまーの生い立ち

簡単に私の毒親エピソードをご紹介します。詳しいお話は体験談として書いています。

生きている意味がわからなかった学生時代

母が毒親だと気付いたのは30代になってから。それまでは問題があるのは父だけだと思っていました。

父が怒る理由は「足音がうるさい」「言い方が気に入らない」とか些細な事ばかり。酒が入っているときの父のスイッチはどこかわからないので、息をひそめるように過ごしていました。

スイッチが入ると、母が止めに入るまで殴られ続けます。終わったあと母には「あんたが余計なこと言うから」と言われ、自分の意見が一つも聞いてもらえない環境にうんざりし、何のために生きているのかわからなくなっていました。

毎日夜になると泣いて、昼間は学校でも誰も信じることができず、常に警戒し、威嚇しながら生きている感じ。

少しだけ自由になれた高校時代

この時期、父は癌で入退院を繰り返していました。父がいないことで私は少し自由になれました。しかし自由だったのは母も同じ。不倫をしていて、家にはほぼ帰ってきません。

両親から厳しく育てられていた私は、母が不倫していてもどうでもよく、初めての自由を満喫。一方まだ中学生だった妹は、誰も帰ってこない一軒家に一人ぼっち。

父が亡くなると、母は彼氏と一緒に遠くへ引っ越しました。私(高2)と妹(中3)は2人暮らしに。よく考えたらネグレクトですね。今、気づきました(笑)

妹は、今でもずっとこの時のことを恨んでいます。「一緒にいてほしかったときに、私は捨てられた」と。

私は親から殴られることは普通だと思って生きてきました。自分から親の話をすることはありませんでしたが「叩かれたことがない」という子がたくさんいたことに衝撃を受けました自分の家はおかしいんだ…とはじめて気づきます。

遊びまくっていた専門学校時代

実家から通っていた専門学校時代。遊んでばかりで家に帰らず、母も家にいない。妹はここでも一人でした。

そのうち私は一人暮らしをすることになり、妹は父の実家に預けられることになりました。たぶん一人でいるよりはよかったと思います。

父と祖母が亡くなったこの時期、家を2件売り、1000万以上のお金があったはず。私は学費のみ出してもらえましたが、妹は全額奨学金で学校に行きました。2人とも1人暮らしのお金は奨学金+バイト代。母は出してくれず。1000万どこいった?その答えは数年後わかることとなります。

成人式は一人で着物を持って着付けに行き、自分で車を運転して会場まで行きました。周りは親が付き添いに来ているのに、自分だけが一人で大荷物を抱えてる。子どもができた今、娘の晴れ姿を見ようともしなかった親が信じられません。

結婚後

結婚後8年くらいは、夫のモラハラがひどく、母が仲裁に入ることもしばしば。仲裁に入る母に余計イライラする夫。

週5で機嫌の悪い夫に、追い打ちをかける母。間に挟まれる私。もう限界でした。「今、道路に飛び出せば楽になれるのか?」「どうせ私が死んでも誰もなんとも思わないんだ」そう毎日思うほど病んでいました。

しかしここから私の人生が動き出しました。

夫のことを友達に相談していた時に聞いた【モラハラ】という言葉。そんな言葉は知らなかったので必死に調べました。

何もかも夫に当てはまる特徴。すべてが理解できました。

「あぁ…この人は病気なんだ。だから話が通じなかったんだ…」

育った環境が影響すること。ここで毒親という言葉を知りました。夫の両親は毒親の特徴に当てはまります。

自分がモラハラと自覚した夫は少しずつ改善していきました。(根本的には治らないけど)

今思えば、ここから人生は好転していきました。

敵は毒親という共通認識

夫と上手くいくようになった要因はもう一つあります。私の母です。

夫の親が毒親とわかったとき、まだ自分の親が毒親とは気づいていません。小さい時から洗脳されているので、良い親だと思い込んでいました。

ここから夫とうまくいくようになったことで、母の本性が見えはじめるのです。

「誰のおかげでいい思いができているんだ」「感謝が足りない」「あんた達だけいいね」

自分より幸せな娘が許せない、その中に自分がいないのが許せない、そんな感じでした。この時は一緒に住んでいたので、毎日のように嫌味を聞かされ私も夫もうんざり。

ここで母も毒親だと気付きます。考えてみたら小さいころから良い母親なんかじゃなかった。そんなことに気づかないくらい洗脳されていました。

夫と母を家から追い出そうと協力したことが、夫とうまくいく要因になりました。

ここからが地獄の日々

この頃、母の借金が発覚。1000万以上あったはずのお金は10年以内に底をついていたようです。私たちが学校に行きながら自分の生活費をバイトで稼いだころ、母は彼氏と高級旅館に行ったり、高級車に乗っていた理由がここでようやくわかりました。

家に居づらくなった母は出ていきました。しかし、ここからが地獄。

毎日電話の嵐。でなければ、家まで来て勝手に入ってくる。誰かと出かければ、「誰と?」「どこに?」と質問攻め。答えなければキレる。借金の返済をしてる最中なのに外食ばかり行きたがり、どこからお金が出てくるのかと思ったら、祖母(父方)から金を隠れて貰ってることが発覚。

「ばーちゃんに金を貰うな」といっても言い訳ばかり。会っても、誰かの悪口しか言わなくて苦痛。

ついに我慢の限界がきました。母にブチギレます。

逆らったことのない娘

自分の意見が言えない環境で育ってる私は、母に逆らったことがありません。怒鳴った私を許せなかった母は、こちらが何に怒っているかなんて聞いてもくれませんでした。

母は「ここまで育ててやったのに」「お前の気持ちはよくわかった」「お前は感謝が足りない」「親に逆らったあんたが悪い」しか言わず話になりません。

「こんな親もういらない」

吹っ切れた瞬間でした。

その後

私はあまりのストレスで突発性難聴になり、低い声などが聞き取りにくくなりました。今でも調子が悪いと、耳鳴りとめまいがします。

母のことは存在自体がが苦痛となり、目を合わせることができなくなりました。1年くらいは子どものこともあるので最低限の付き合いをしていましたが、目を合わさなくなった私が気に入らない母は遠くへ引っ越していきました。それから3年くらい経ちますが、一切連絡をしていません。

その後の私は、最初の1年くらいはフラッシュバックに悩まされましたが、今では人生で一番穏やかなときを過ごしています。

私の親とは絶縁し、夫の親とは最低限の付き合いしかしていないので、頼れる人がいない私たち。でもそれが家族の絆を深めることとなりました。

子どもは親を選んで生まれてくるなんて嘘。
親だからと罪悪感を感じる必要もない。
大事なのは親ではなく、自分がどうしたいか。

すべて逆の意味で悩んでいた私が、毒親と絶縁したことでたどり着いた答えです。

自分の人生は自分の物。
毒親に支配され続けるなんてもったいない。
自分と自分の大切な人のために時間を使いましょう。

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